清朝の隆盛と衰退② アヘン戦争
2018/6/10(日) 午後 9:22

1840年アヘン戦争
中国の近代史を理解する上ではずすことの出来ない「キーワード」の1つに「アヘン戦争」がある。「アヘン戦争」とはどのようなものだったのか。
実は日本の江戸時代と中国の清の時代には共通していることがあるのだが、それは自由に他国と交易することを禁じる「鎖国体制」であったということ。
しかし両国とも完全に外からの情報を遮断して全く交易していなかったというのではなく、日本が長崎の「出島」でオランダ商人との交易があったように、清では広東省広州市の港(広東港)のみに限り、北京政府の許可を得た主に東インド会社の英国人との交易は行われていたのである。これを「広東貿易」と呼ぶ。
英国は18世紀末の対中国貿易戦争で勝ち残り、広東省広州での茶や絹織物などの貿易を推進。当初は清に大量の銀が流入した。広州市は古来より南海貿易の中心地で知られ、貿易管理のため市舶司がおかれていた。
英国は中国市場の更なる開拓を目指し、北京政府との「直接のやりとり」による貿易の拡大を希望。例として1793年乾隆帝80歳の誕生日を祝う使節団を英国から派遣し交渉を行うも失敗。北京政府は(つまり「清朝」)ヨーロッパ商人との交易は「朝貢」の一つととらえらていたようで、直接貿易交渉には応じようとしなかったのである。
清から茶、陶磁器、絹織物を大量に輸入する一方、英国は輸出する商品は時計や望遠鏡など富裕層向けのものに限られ、大量輸出商品がなく、「大量輸入超過」であった。そこで思いついたのが、インドの綿を中国に輸出する代わりに、インドで栽培したアヘンを輸出するという「アヘン貿易」である。
英国はインドでの支配を巡り、18世紀に仏と戦って仏をインドから追い出し、インドとはイソール戦争、マラーター戦争、シク戦争などを戦い、そのたびにインドでの支配地域を広め、東インド会社を統治機関として1849年にはインドの植民地化を完成させていた。
インドで栽培されるアヘンを中国からの輸入超過分だけ清に密輸し、アヘンの代金を銀で払わせるという「三角貿易」を始めたのだ。
これは清にとって最悪の事態であった。実は明末期から中国ではアヘン吸引の習慣が広まり、1796年にはアヘン輸入禁止となり、19世紀以降も何度となく禁止令が発せられたが、アヘンの密輸入は止まず、健康を害するものも増え、風紀も退廃し、民度が低下。アヘンの代金は銀で決裁しとことから、アヘン輸入の増加により貿易収支が逆転し銀保有量も激減。
1839年清朝は林則徐を欽差大臣(特命全権大使)に任じて広東に派遣しアヘン密輸の取り締まりにあたらせた。林則徐はアヘン商人達に「持ち込んだら死刑」と通告、同年6月6日、没収したアヘンをまとめて処分。焼却ではなく、海水に浸し塩と石灰を投入し化学反応によって無毒化。処分したアヘンの総量は1400トンを超えたというから凄まじい量である。
取り締まりに応じない英国側と清との関係が悪化、1839年9月4日に九竜沖砲撃戦、11月3日に川花海戦が起こり、清国船団は壊滅。
当初は英国議会では「不義の戦争」として批判の声もあったが、清への出兵予算は僅差の投票で賛成となり、1840年8月までに軍艦16隻、輸送船27隻、東インド会社所有の武装汽船4隻、陸軍兵士4000人を中国に派兵。
英国は林則徐が大量の兵士を集めていた広州ではなく兵力が手薄な北方の沿岸地域を占領しながら北上し、大沽砲台を陥落させて首都北京に近い天津沖に侵入。
天津に軍艦が現れたことに驚いた道光帝は、強硬派の林則徐を開戦の責を負わせて新疆イリに左遷し、和平を申し入れ、英国軍側もモンスーンの接近に警戒しており、舟山諸島占領軍の間に病が流行していたためこれに応じて9月に一時撤収。
1841年1月20日には川鼻条約を締結し、広東貿易早期再開、香港割譲、賠償金600万ドル支払い、公行廃止、両国官憲の対等交渉。ところが英国軍が撤収するや清政府内で強硬派が盛り返し、道光帝は川鼻条約の正式な締結も拒否。
締結拒否を知った英軍はその報復として軍事行動を再開。英国艦隊は揚子江以南の沿岸地域を次々と制圧。制海権を握り、火力にも優る英側が自由に上陸地点を選択できる状況下、戦争は複数の拠点を防御しなければならない清側正規軍に対する、一方的な英軍有利の様相となる。
英国艦隊はモンスーンに備えて1841年から1842年にかけての冬の間は停止したが、1842年春にインドのセポイ6700人、本国からの援軍2000人、新たな汽走砲艦などの増強を受けて北航を再開。5月に清が誇る満洲八旗軍が駐屯する乍浦を陥落させ、揚子江進入を開始。
7月には鎮江を陥落させ京杭大運河は止められ、北京は補給を断たれる。この破滅的状況を前に、道光帝ら北京政府の戦意は完全に喪失。清は敗北を認め、1842年8月29日南京条約締結となったのであった。
南京条約の中身は、公行制度(一部の貿易商による独占貿易)を廃止し、自由貿易制に改め、従来の3港に福州、上海を加えた5港を自由貿易港と定めた。加えて本条約では英国への多額の賠償金支払いと香港の割譲が定められた。
また、翌年1843年の虎門塞追加条約では治外法権、関税自主権放棄、最恵国待遇条項承認などが定められた。
以上が175年前に中国と英国との間で起こった戦争である。「自由貿易」という言葉がここに登場している。しかしまだWTOなどの機関もない、「武力」で弱い相手を抑え込み、弱者に対し強者が自分に都合のいいルールに従わせる、エゴむき出しの帝国主義時代の話である。
ところで現在、米中貿易戦争、米EU貿易戦争が勃発しており、米国の「反グローバリズム」である「保護貿易主義」がG7の中で問題となっている。
貿易の自由化は、国家にとって自国の産業の衰退を招く要因となり、現に米国の中西部地域と大西洋岸中部地域に広がる「ラストベルト(錆びた地帯)」の問題は深刻。海外の市場拡大と背中合わせで流入する移民問題も、先進国にとって大きな問題となっている。
18世紀後半から始まった産業革命後の世界の潮流「自由貿易」と、自国の産業を守るための「保護貿易」とでどのように折り合いをつけていけるのか、それぞれの国の利害関係は究極のところ一致するはずもなく、世界貿易において米国が提唱してきた「ルールに基づくグローバリズム」は今、逆に米国の首をしめている。
しかし、世界が話し合って1度決めた貿易のルールを、都合が悪くなったからといってひっくり返すということはそもそも責任ある国家のふるまいではない。しかし、勝者の傍らには必ず敗者がいるように、この深刻な対立はいわば当然の帰着でもあったのではないだろうか。
引用:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E7%89%87%E6%88%A6%E4%BA%89
コメント
世界は自国の国益で動いて居ますが、それでも一旦合意した内容を、都合が悪くなった、と云って破棄するのは、大変に恥ずかしい事です。前政権の政策が、反故にされることは世界中で幾らでも例の在る事です。それが出来るのは覇権が有るからでしょうね。
2018/6/13(水) 午前 10:10 [ 井頭山人(魯鈍斎) ]
> 井頭山人(魯鈍斎)さん
コメントを頂きありがとうございます。米国もそれがわかっていて、「ちゃぶ台返し」が平気でやれるあのような無茶苦茶なキャラクターの大統領の登場を望んだのだと思います。優等生タイプのオバマ大統領ならやってもらえない「荒業」ですね。
昨日北朝鮮のトップがあのような形で中国に航空機を借りてまでシンガポールにやってきたのも、結局は、米国の強大な軍事力の行使を恐れてのことですし、北にすれば米朝会談をやってもらわなければ本当に米英仏軍がスタンバイしている中で、軍事力行使となっていていたのでしょうし。最後は相手を従わせるものというのは、やはり「実行的な力」でしかないという意味で、「米国の圧倒的な軍事力」が米国の「覇権」の源泉でもることも否定しようがない事実で
2018/6/13(水) 午前 10:33 kamakuraboy

1840年アヘン戦争
中国の近代史を理解する上ではずすことの出来ない「キーワード」の1つに「アヘン戦争」がある。「アヘン戦争」とはどのようなものだったのか。
実は日本の江戸時代と中国の清の時代には共通していることがあるのだが、それは自由に他国と交易することを禁じる「鎖国体制」であったということ。
しかし両国とも完全に外からの情報を遮断して全く交易していなかったというのではなく、日本が長崎の「出島」でオランダ商人との交易があったように、清では広東省広州市の港(広東港)のみに限り、北京政府の許可を得た主に東インド会社の英国人との交易は行われていたのである。これを「広東貿易」と呼ぶ。
英国は18世紀末の対中国貿易戦争で勝ち残り、広東省広州での茶や絹織物などの貿易を推進。当初は清に大量の銀が流入した。広州市は古来より南海貿易の中心地で知られ、貿易管理のため市舶司がおかれていた。
英国は中国市場の更なる開拓を目指し、北京政府との「直接のやりとり」による貿易の拡大を希望。例として1793年乾隆帝80歳の誕生日を祝う使節団を英国から派遣し交渉を行うも失敗。北京政府は(つまり「清朝」)ヨーロッパ商人との交易は「朝貢」の一つととらえらていたようで、直接貿易交渉には応じようとしなかったのである。
清から茶、陶磁器、絹織物を大量に輸入する一方、英国は輸出する商品は時計や望遠鏡など富裕層向けのものに限られ、大量輸出商品がなく、「大量輸入超過」であった。そこで思いついたのが、インドの綿を中国に輸出する代わりに、インドで栽培したアヘンを輸出するという「アヘン貿易」である。
英国はインドでの支配を巡り、18世紀に仏と戦って仏をインドから追い出し、インドとはイソール戦争、マラーター戦争、シク戦争などを戦い、そのたびにインドでの支配地域を広め、東インド会社を統治機関として1849年にはインドの植民地化を完成させていた。
インドで栽培されるアヘンを中国からの輸入超過分だけ清に密輸し、アヘンの代金を銀で払わせるという「三角貿易」を始めたのだ。
これは清にとって最悪の事態であった。実は明末期から中国ではアヘン吸引の習慣が広まり、1796年にはアヘン輸入禁止となり、19世紀以降も何度となく禁止令が発せられたが、アヘンの密輸入は止まず、健康を害するものも増え、風紀も退廃し、民度が低下。アヘンの代金は銀で決裁しとことから、アヘン輸入の増加により貿易収支が逆転し銀保有量も激減。
1839年清朝は林則徐を欽差大臣(特命全権大使)に任じて広東に派遣しアヘン密輸の取り締まりにあたらせた。林則徐はアヘン商人達に「持ち込んだら死刑」と通告、同年6月6日、没収したアヘンをまとめて処分。焼却ではなく、海水に浸し塩と石灰を投入し化学反応によって無毒化。処分したアヘンの総量は1400トンを超えたというから凄まじい量である。
取り締まりに応じない英国側と清との関係が悪化、1839年9月4日に九竜沖砲撃戦、11月3日に川花海戦が起こり、清国船団は壊滅。
当初は英国議会では「不義の戦争」として批判の声もあったが、清への出兵予算は僅差の投票で賛成となり、1840年8月までに軍艦16隻、輸送船27隻、東インド会社所有の武装汽船4隻、陸軍兵士4000人を中国に派兵。
英国は林則徐が大量の兵士を集めていた広州ではなく兵力が手薄な北方の沿岸地域を占領しながら北上し、大沽砲台を陥落させて首都北京に近い天津沖に侵入。
天津に軍艦が現れたことに驚いた道光帝は、強硬派の林則徐を開戦の責を負わせて新疆イリに左遷し、和平を申し入れ、英国軍側もモンスーンの接近に警戒しており、舟山諸島占領軍の間に病が流行していたためこれに応じて9月に一時撤収。
1841年1月20日には川鼻条約を締結し、広東貿易早期再開、香港割譲、賠償金600万ドル支払い、公行廃止、両国官憲の対等交渉。ところが英国軍が撤収するや清政府内で強硬派が盛り返し、道光帝は川鼻条約の正式な締結も拒否。
締結拒否を知った英軍はその報復として軍事行動を再開。英国艦隊は揚子江以南の沿岸地域を次々と制圧。制海権を握り、火力にも優る英側が自由に上陸地点を選択できる状況下、戦争は複数の拠点を防御しなければならない清側正規軍に対する、一方的な英軍有利の様相となる。
英国艦隊はモンスーンに備えて1841年から1842年にかけての冬の間は停止したが、1842年春にインドのセポイ6700人、本国からの援軍2000人、新たな汽走砲艦などの増強を受けて北航を再開。5月に清が誇る満洲八旗軍が駐屯する乍浦を陥落させ、揚子江進入を開始。
7月には鎮江を陥落させ京杭大運河は止められ、北京は補給を断たれる。この破滅的状況を前に、道光帝ら北京政府の戦意は完全に喪失。清は敗北を認め、1842年8月29日南京条約締結となったのであった。
南京条約の中身は、公行制度(一部の貿易商による独占貿易)を廃止し、自由貿易制に改め、従来の3港に福州、上海を加えた5港を自由貿易港と定めた。加えて本条約では英国への多額の賠償金支払いと香港の割譲が定められた。
また、翌年1843年の虎門塞追加条約では治外法権、関税自主権放棄、最恵国待遇条項承認などが定められた。
以上が175年前に中国と英国との間で起こった戦争である。「自由貿易」という言葉がここに登場している。しかしまだWTOなどの機関もない、「武力」で弱い相手を抑え込み、弱者に対し強者が自分に都合のいいルールに従わせる、エゴむき出しの帝国主義時代の話である。
ところで現在、米中貿易戦争、米EU貿易戦争が勃発しており、米国の「反グローバリズム」である「保護貿易主義」がG7の中で問題となっている。
貿易の自由化は、国家にとって自国の産業の衰退を招く要因となり、現に米国の中西部地域と大西洋岸中部地域に広がる「ラストベルト(錆びた地帯)」の問題は深刻。海外の市場拡大と背中合わせで流入する移民問題も、先進国にとって大きな問題となっている。
18世紀後半から始まった産業革命後の世界の潮流「自由貿易」と、自国の産業を守るための「保護貿易」とでどのように折り合いをつけていけるのか、それぞれの国の利害関係は究極のところ一致するはずもなく、世界貿易において米国が提唱してきた「ルールに基づくグローバリズム」は今、逆に米国の首をしめている。
しかし、世界が話し合って1度決めた貿易のルールを、都合が悪くなったからといってひっくり返すということはそもそも責任ある国家のふるまいではない。しかし、勝者の傍らには必ず敗者がいるように、この深刻な対立はいわば当然の帰着でもあったのではないだろうか。
引用:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E7%89%87%E6%88%A6%E4%BA%89
コメント
世界は自国の国益で動いて居ますが、それでも一旦合意した内容を、都合が悪くなった、と云って破棄するのは、大変に恥ずかしい事です。前政権の政策が、反故にされることは世界中で幾らでも例の在る事です。それが出来るのは覇権が有るからでしょうね。
2018/6/13(水) 午前 10:10 [ 井頭山人(魯鈍斎) ]
> 井頭山人(魯鈍斎)さん
コメントを頂きありがとうございます。米国もそれがわかっていて、「ちゃぶ台返し」が平気でやれるあのような無茶苦茶なキャラクターの大統領の登場を望んだのだと思います。優等生タイプのオバマ大統領ならやってもらえない「荒業」ですね。
昨日北朝鮮のトップがあのような形で中国に航空機を借りてまでシンガポールにやってきたのも、結局は、米国の強大な軍事力の行使を恐れてのことですし、北にすれば米朝会談をやってもらわなければ本当に米英仏軍がスタンバイしている中で、軍事力行使となっていていたのでしょうし。最後は相手を従わせるものというのは、やはり「実行的な力」でしかないという意味で、「米国の圧倒的な軍事力」が米国の「覇権」の源泉でもることも否定しようがない事実で
2018/6/13(水) 午前 10:33 kamakuraboy
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